Story
本作は、自分の好きなこと、自分にできることを追い続けてきた二人の人間のドキュメンタリーです。二人とは、東京大学特別教授の有機化学者 中村栄一さんと古楽器演奏者 渡邊順生さん。ともに70歳、中学・高校の同級生です。
2020年8月、蓼科の小さな音楽堂で二人は初めて一緒にバッハを演奏しました。バロック時代のフルートとチェンバロを演奏する二人を結ぶものは何か?「化学」と「音楽」という別々の道を歩いてきた二人を貫くものは何か?
本番前のインタビューで、中村さんと渡邊さんのこれまでと現在が明かされます。中学・高校時代、自由な校風と個性的な恩師、大学入試が直前に中止された1969年の出来事、そして蓼科でまた交わる二つの道。映画が描くのは「自由」を体現する人間が辿ってきた道のりです。
「決めるのは自分だ」
中村さんと渡邊さんは、自分で決めたことに迷わず情熱を傾けていく。それはもう純情と言っていい。二人ともごく普通の人だが、自分の決定に従ったが故に、中村さんは実験の爆発で失明の危機に遭遇し、渡邊さんはチェンバロ弾きを目指していきなりオランダに渡るという無謀を犯すことになった。でも彼らは全く後悔していない。苦しみも喜びも全てが自分。答えのない世界を歩き続け、失敗を繰り返し、それでもきっと楽しいと思っている。
二人の話は確かに面白かった。しかし私を本当に捕らえたのは、結構大胆な道のりを当たり前のように語る二人の態度だった。それは、自分と正直に向き合ってきた人間の態度だ。静かに、頑固に、誰にも責任転嫁せずに、自分の事として、自らの決定に従う。二人は紛れもない個人だった。
今のこの国で個人として生きるのは難しい。自分を貫こうとするとたちまちバッシングが起こる。多くの人の気持ちが委縮している。「多様性」という言葉がこれほど軽々しく語られる国はあるだろうか。誰かに責められるのを恐れて、誰かが決めた多数意見の側に付く。しかしそこにはもう個人はいない。
自分で決めるのは怖いことだ。躊躇もする。自信を持てないときもある。ようやく実行しても失敗は起こる。痛みが周囲の人たちに及ぶこともある。決めるとはそういうことであり、個人であり続けるには自分で決め なければならない。
何も声高になる必要はない。淡々と決心して、大らかに実行し続ける。それを示してくれたのが中村さんと渡邊さんだった。
2021.08.06
監督 杉本信昭
バロック音楽で心を穏やかに
本作では、蓼科の森に響く鳥のさえずりやバロック音楽を奏でる古楽器の協奏を楽しむのも一つの味わいです。
中村さんと渡邊さんお二人が演奏したのは、バッハ作曲の「フルートと通奏低音のためのソナタ・ホ短調」。
そして、おまけは、渡邊さんがベートーベン時代のピアノ(フォルテピアノ)を使って演奏するオールドタイマーには懐かしい「月光仮面は誰でしょう」です。
演奏曲リスト
- F.ジェミニアーニ
合奏協奏曲 ニ長調 作品3-4 - J.S.バッハ
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1034 第1楽章 - 作曲:小川寛興
月光仮面は誰でしょう - J.S.バッハ
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1034 第2楽章 - J.S.バッハ
イタリア協奏曲 BWV971 - J.S.バッハ
トッカータ 嬰ヘ短調 BWV910 - J.S.バッハ
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1034 第3楽章 - J.S.バッハ
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1034 第4楽章
私の心に残った言葉
制作 石田悠夏 (23歳)
[1番印象に残った言葉]
中村さんのインタビューより
「よく、好きなことやりなさいっていうでしょ?あれ正しくないですよね。できることやんなきゃいけないわけね。とにかく好きなものでできるものを見つけて、徹底的にやる。」
渡邊さんのインタビューより
「自分の理想って何なんだろうって考えれば考えるほど分かんなくなるんだけど、でもやってると、なんだか分かった感じになってくるんですよね。だから結局進んでかなきゃダメなんですよね。」
いろんな選択肢がある中で、一か八かでも自分の中で最大限に出来ることを選択し続けておられるところが素敵です。「出来ること」って実際、自分にしかわからないですよね。出来ないって言われても努力すれば出来ちゃうかもしれないし。だから、努力家なお二人は「出来ること」の選択肢が広いのかもなと思ったりします。
[印象に残った言葉]
中村さんのインタビューより
「音響が鼓膜を振動させて、ある感情になるというメカニズム」
「音楽も科学も、メッセージを伝える手段」
「音楽を何十年もやって、やっと音楽が難しいということがわかってきた。」
「そういう時代ですよね、みんなで右往左往してたって感じかな。その中で、生徒は自分の道を見つけてった。」
―1969年学生紛争の時代 東大入試が中止になった時のエピソード
「稀有な機会だから、体温がどういう風に動くか記録しておきたいなって思って。」
―実験中に起きた爆発事故で入院していた時のエピソード
爆発事故で入院してる時ですら、最大限の「出来ること」をやっておられて、中村さんのこれまでの道のりは、常に、あまりに柔軟で、ホンモノの決断と実行に、思わず笑みがこぼれました。
渡邊さんのインタビューより
「音楽も、仮説を立ててみて、その仮説が何らかの方法で証明できないか。」
「演奏によって証明する。」
「何とかして楽器の音を通じてそれぞれの作曲家に近づこうとしてるわけですよね。」
音楽を通じて表現するだけでなく、ある人に近づこうとするという、新しい発想に出会いました。
筑駒 音楽室での対談より
「勉強したかったら本でも読めばいい。」
中村さん、渡邊さんの対談より
「サイエンスってのは論理そのもの」
渡邊さんの個人レッスンより
「ここは何色か、とか思いながら弾くといいと思うよ。」
まるで、インタビューでお聞きしていた教駒時代の先生のような教え方だなと思いました。私も幼い頃からバレエを続けてきましたが、レッスン中は上手くなる事ばかりを考えて踊ります。音楽も 踊りも表現である以上、作品のイメージについて自然と教えてくれる先生を、素直に素敵だなと思いました。
文責 石田悠夏
制作ノート この映画ができるまで
2020年7月初旬
東大の中村栄一さんから
「8月初旬に古希の祝いをかねて、渡邊順生さんたちと蓼科でミニコンサートをやる予定だが、コロナ禍で観客を入れられないので記念に撮影をしてくれないか」と連絡があった。
そこで「コンサートだけ撮ってもつまらないので、中村さんと渡邊さんの70年を見つめ直すドキュメンタリーを作りましょう」と提案し、快諾。
※ここで一言:
中村さんとは2009年に「ERATO中村活性炭素クラスタープロジェクト」という研究紹介映像で知り合った。中村さんは非常に気さくな方。有機化学の世界的な研究者なのに面白い先生で、仕事もないのに年に2、3回研究室に伺いお話をしていた。
すぐに杉本信昭監督に連絡。
※また一言:
杉本監督とは長い付き合いで、作品も多く作っている。しかし、頭が文系で科学のことやバロック音楽のことを全く知らない。しかし、インタビューをさせたらピカイチの人だ。詩が全く分からずに谷川俊太郎さんの懐にはいって映画にした監督である。
当初は戸惑いもあったが、こちらも快諾。
そこで、テレビ会議を中村さんとする。中村さんと渡邊さんの自分のことを書いた文章などをもらい、どのような切り口にするか考える。
※また一言:
普通は中村さん、渡邊さんと会っていろいろ取材し、その後に酒 を酌み交わしながら映画の構想を練るのが普通だ。今回はコロナで全て中止。シラフで考えると、“飛び跳ね方”が小さくなる? ガマンである。
7月下旬
撮影の構想が出来上がりオールスタッフ会議。
撮影は住田、録音は湯脇、照明は小峯、VEは小久保。小久保はまだ30代後半だが、後は監督も含めて50代後半以上のロートルチームが完成。あまりにもジジイチームなため、社内公募で20代前半の石田が参加。これで平均年齢がだいぶ下がり、若者の気持ちも伝えられるか。
8/7 蓼科に
車も少人数に分けて3台で現場に。
午後に蓼科高原三井の森ハーモニーの家に到着。コロナ対策のため、マスク着用。ハーモニーの家には消毒用アルコールを設置、飲み水は各自がペットボトルで。手洗いも忘れずに。昼食、夕食も弁当にして出演者とは別々にとることになる。
渡邊夫妻と初めて会う。初対面ではあるがなぜか何回もあっている感じがした。インタビューのための下打ち合わせ。リハーサルの前にまず、2人のインタビューから始める。
リハーサルが終了21時。茅野のビジネスホテルにもどって、弁当の夕食をここでは缶ビール付き。
8/8 快晴
蓼科高原は気持ちいい(コロナがなければもっといい)。
小久保のドローン撮影から始める。各自のインタビューが始まる。カメラを向けると緊張するのかと思いきや皆さん普通に話している。杉本マジックか?
最終のリハーサル。湯脇が汗だくになりながら一人でマイクをセッティング。12本持ってきたマイクは全部並んだ。本番では、コンサートを聞きつけた友人が数人客となり、あとは関係者だけのコンサート。演奏会の締めは、渡邊夫人、西田さん(夫君)もバイオリンを携えて飛び入り参加のアンコール。
撮影終了後
昨晩、杉本監督と決めた「中村さんと渡邊さんの日常を撮影したい」旨をお二人に伝え了解を得る。中村さんは、東大の研究室を。渡邊さんは自宅のアトリエを。撮影することになった。
10月
中村研究室での撮影とインタビューをする。広い研究室では修士やドクターの院生が活き活きと研究に勤しんでいる。
11月中旬
渡邊さんのアトリエの撮影とインタビューを再度行う。
蓼科でのインタビューでも今回の話でも、二人とも必ず中学高校時代の話が出ていた。お二人の起点(原点)になっているのではと思っていた。
そこで、母校である筑波大学附属駒場中学校・高等学校の撮影について、中村さんを通じて許可をもらう。そして、昔の教駒(現在の筑駒)の撮影に行く。
ふと思う。昨年の秋は、緊急事態宣言は出ていなかったのだ。
12月初旬 筑駒の撮影
梶山副校長(当時)に出迎えられ校庭、化学室、音楽室などの撮影をする。
コロナ禍でもあり生徒のいない土曜日の午後、短時間の撮影となった。渡邊さんは50年ぶりくらいだという。二人ともとても楽しそうだ。
やはり、ここが原点だったのだ。これでクランクアップだ。
12月下旬 編集開始
緊急事態宣言の合間をぬって断続的編集を行う。構成/編集はいつも杉本監督とコンビを組む村本が担当。
2月中旬
ナレーターはシシド・カフカさんがいいということで、杉本、村本、小松原で一致。
理由は、杉本作品によくある監督のナレーションというのも考えたが、今回の バロック音楽とは合わない。女性でしかも低い声で淡々としているが力のある口調でいきたいと考えていた。
ある日、テレ東の番組でナレーションを聞きカフカさんしかいないと思ったのだ。所属プロダクションからも了解を得る。
3月下旬
緊急事態宣言解除後、ナレーションを収録する。
シシドさんは一発勝負がすきなようだ。ほとんどが一回でOKだった。読み方によっては非常に難儀になるナレーションが静かに浸透していった。やはり、バロック音楽とも合う。
4月に入り、また緊急事態宣言が発令され、完成した映像は眠りに入る。
7月
そろそろどうかと思い、私の敬愛する詩人の谷川俊太郎さんに映画を観てもらう。
すると、絶賛のメールが事務所から届く。
「小松原/杉本作品ではベスト1」だと。電話すると「出演者が素晴らしい。よく見つけたね。また、奥さんが素晴らしいね。」と褒めてもらう。
俄然やる気になって、ポレポレ東中野の大槻支配人にも映画を観てもらうと
「ジジイたちが撮った、このジジイの映画は、今時の若い者はだめだとか、昔はよかったとかではなく、若い人達に、ただ自分で好きなことを見つけて、自分で決断して生きていけば、大変でも面白いよ」と言っている映画だと話してくれた(ここはすこし誇張あり)。
大ジジイの谷川さん、若ジジイの大槻さんが褒めてくれたので上映のはこびとなった。
文責 プロデューサー 小松原時夫